スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

池田輝政

池田輝政


「池田輝政(いけだてるまさ)」



愛刀 “大包平”(おおかねひら)


家紋 “備前蝶”(びぜんちょう)



池田輝政


永禄7年(1564)、清洲城に生まれた。信輝の次男で、幼名を古新といった。
若年の頃から織田信長に側近として仕え、のちに秀吉に仕えた。

天正6年(1578)、荒木村重謀反の際、花隈城攻略に抜群の功を示し、
信長より感状を賜る。天正10年(1582)、信長の武田征伐に従軍して功あり、
天正12年、長久手の戦いで父信輝と兄元助を失ったために家督を相続。
その遺領美濃10万石を継ぎ、大垣城を守る。ついで岐阜城主となる。

秀吉に従ってからも、天下統一の諸戦に参加し、九州征伐、小田原攻めののち、
功により三河吉田に15万石を与えられ、転封となる。

文禄元年、朝鮮の役で渡海、福島正則、加藤清正らと親しみ、同3年(1594)、
秀吉の命で家康の娘・督姫と結婚。以降、徳川氏と親交を深めた。

関ヶ原の戦いでは、徳川方の先遣部隊として岐阜城を落とし、
東軍の背後に陣して、南宮山の毛利・長宗我部ら西軍の攻撃に備え、
安国寺など毛利の本軍を釘付けにした事が、東軍勝利の一因となった。

戦後は、関ヶ原の功により、播磨52万石を領して、姫路城を構築。
備前31万5千石、淡路6万3千石を加増され、一族80数万石におよび
世に姫路宰相百万石と称された。
慶長18年(1613)1月25日、姫路城で没した。50歳。

輝政の構築した姫路城はその天守の美しさにおいて日本一の名城と称された。
池田氏の子孫はそののち、因幡・伯耆に転封、さらに備前岡山に移り明治を迎えた。




愛刀 “大包平”




家紋 “備前蝶”

豊臣秀吉

農民から関白へ上り詰めた男「戦国一の出世頭 豊臣秀吉」

農民から関白へ上り詰めた男
「戦国一の出世頭 豊臣秀吉」



愛刀 “一期一振”(いちごひちとふり)
    “孫六兼元”(まごろくかねもと)


武具 “唐冠兜 馬簾後ろ立て”
    (とうかむりかぶと ばれんうしろだて)
     “当世具足”(とうせいぐそく)


愛馬 “内記黒”(ないきぐろ)

家紋 “五七桐紋”(ごしちのきりもん)



豊臣秀吉

 豊臣秀吉は百姓の子であったが、
その能力を認められ織田信長の家臣として仕えた。
備中(現在の岡山県高松)で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は、
織田信長が本能寺の変で明智光秀にそむかれ自害したと 聞くと、
毛利氏と和議を結び、京都に兵を返し、本能寺の変からわずか11日後に
明智光秀を討った。
農民の子供がここまで出世できたのも信長のおかげ。
信長の意思を受け継ぎ、天下統一に乗り出した。
その後、織田家の有能な家臣たちをも破りついには信長の後継者となった。
また、徳川家康とも戦うが決着がつかず和睦。
朝廷から関白となり、天皇から大名間の戦いや一揆をすべてまかされた。
検地や刀狩を行い、1590年小田原の北条氏を破り天下統一を達成したが
その野望は留まらず、朝鮮侵略に乗り出した。
朝鮮侵略は2度行われたが一度は優勢になるも、結局2度とも失敗し
朝鮮侵略で苦戦する最中、62歳で生涯を閉じた。



愛刀 “一期一振”

粟田口藤四郎吉光作


愛刀 “孫六兼元”



武具 “唐冠兜 馬簾後ろ立て”

     “当世具足”



唐冠を模した兜に、元来植物を模したと言う馬簾後ろ立てを立て、
自らを太陽の子とし【太陽】イメージした秀吉得意の
パフォーマンスの現れであろうか、伝統をくつがえし【顕示欲】を表現する、
その兜は戦国期を代表する斬新な変わり兜の1つで、その子飼いと言われる、
加藤清正(烏帽子兜)福島正則(一之谷兜)加藤嘉明(富士山形兜)など、
以後の戦国武将へも大きく影響を与えた具足と言える。




愛馬 “内記黒”

  
のちに長宗我部元親が拝領した名馬。葦毛の馬である。戸次川の戦いにて
仙石秀久の無謀な策により嫡男である信親を討たれ、窮地に陥った元親を乗せて命を救った。



家紋 “五七桐紋”
豊臣秀吉 家紋

  桐紋は天皇家の家紋。

 桐は中国では聖王をあらわす瑞鳥、鳳凰が止まる木として縁起のいいもの
とされる。

 ところが、この桐は梧桐(アオギリ)のことを言っており、青い高木で黄色い
 花を咲かせる。
 桐紋の桐は白桐で、紫色の花を咲かせる。

 日本の桐紋は、白桐の実形にアオギリの瑞祥の意味を加えて完成したもの。

 皇室の紋としての桐紋は鎌倉時代に完成したようで、菊紋同様後鳥羽上皇のと
 きではないかと推測されている。

 室町期の後醍醐天皇のときには足利尊氏に桐紋を下賜したとかかれており、こ
 のときにはすでに皇室の紋になっていることが明らかになっている。

 こうして、桐紋は菊紋と同様に皇室の紋になり、多くの武家に下賜る。
 ちなみに、13代足利義輝から織田信長に桐紋が与えられている。
 このように、天皇家から武家に。
 さらに、武家から武家に桐紋が伝わっていく。

 その中には豊臣秀吉もおり、彼はその桐紋を愛し、おのれの権力を誇示するた
 めにも工芸美術品の多くにつけられ、桃山時代の美術品の多くには太閤桐と呼
 ばれる紋がすえられ、自己のPRにも役立てた。

 さらに、秀吉は景気よく家臣に桐紋を与えたことも桐紋普及に役立った。

 また、この桐紋は政府の紋章のようにも使われている。
 500円硬貨の裏側は桐だし、パスポートにも使用されており、よく小泉首相
 が外国人記者に向けた会見をする際には、マイクの置かれた壇には桐の紋章が
 描かれている。





明智光秀

逆賊などと揶揄された、武家の作法や公家文化に通じた武将 「敵は本能寺にあり!」明智光秀

逆賊などと揶揄された、
   武家の作法や公家文化に通じた武将
「敵は本能寺にあり! 明智光秀」


愛刀 “備前近景”(びぜんちかかげ)

  
家紋 “桔梗”(ききょう)



明智光秀

岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・
土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、
道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、
明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死した。
光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする
極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。
※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、
煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとした。しかし、光秀はこれを見抜き、
煕子を妻に迎えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に
(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。

やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。
1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として
通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が
中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(38歳)、
13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が
朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)
と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。




愛刀 “備前近景” 
 
明智光秀の愛刀として伝えられているのが「備前近景」。
この刀の茎には「備州長船近」という不完全な銘が切ってある。
これは幕末期にこの刀を入手した庄内藩勘定奉行が、
明智日向守所持という所持銘が入っていたため、
逆賊・光秀の名を憚って刷り落とさせたそう。
近景は備前長船長光の門下で南北朝時代に活躍した刀工で、
備前近景は重要美術品として現存。




家紋 “桔梗”
明智光秀 家紋

  清和源氏頼光流・土岐一族の代表家紋である。使用家は他に加藤清正、
坂本龍馬などがそうであった。江戸時代においては特に家紋を衣服につけるのは
男性のみであったので、婦人はこの桔梗を小型に線書きしたものを用いていた。
特にこれを発祥とした紋が多く、丸に桔梗、八重桔梗など百種以上にも及ぶ。
分布は土岐氏の勢力範囲であった美濃・飛騨を中心に中部地方から西に拡がっており、
使用家の多さもベスト10に入る有名紋である。
余談だが、我が家の母方がこの桔梗紋である。
頼光流では太田、遠山、池田、高田、脇坂、福島、三沢、菅沼の諸氏、義家流では
松平、花井、榊原、小柴氏などがあり、清和源氏系との結びつきの強さが伺える。


明智光秀にまつわる言葉

本能寺の変(ほんのうじのへん)

天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、
京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。
暗殺事件との解釈もなされる。
だがこの後、毛利に苦戦中だった豊臣秀吉がアッという間に和睦をまとめ、
京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。
最期は農民に竹槍でつかれるという悲惨なものだった。
光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。



蒲生氏郷

武両道に優れた名将 「風流の利発人 蒲生氏郷」

文武両道に優れた名将
「風流の利発人 蒲生氏郷」


愛刀 “会津新藤五”(あいづしんとうご)

    “鉋切長光”(かんなぎりながみつ)

    “会津正宗”(あいづまさむね)
  
家紋 “対い鶴”(むかいつる)



蒲生氏郷

蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚。
現在の会津若松の基礎は彼によって築かれた。黒川を会津と
改めたのも蒲生氏郷である。文武両道に優れた人材だったが、
わずか40才でこの世を去る。

 氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として
知られるが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する
文化人としても有名。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほど。
利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、
利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を
死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、
茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあった。





愛刀 “会津新藤五” 
  
  この短刀は、所持者である蒲生氏郷が会津を領有していたこと
 から名付けられた新藤五国光の最高傑作である。氏郷から秀 行、
 忠郷と伝えられ、森川半弥に贈答。それを前田利常が金百 枚で購入し、
 元禄15年4月に、将軍綱吉に献上され徳川将軍家 に伝来。

     国宝(東京都個人蔵)
       短刀 銘 国光
         刃長 8寸4分  内反り
         元幅 7分8厘  元重 2分4厘
         代附 200枚


愛刀 “鉋切長光” 

  この小太刀は、近江の堅田又五郎が、大工に化けた妖怪を鉋ごと
 斬ったことから名付けられた。その後六角氏から織田信長、丹 羽長秀、
 蒲生氏郷とわたり、氏郷の死後、寛永元年4月14日に 蒲生忠郷より
 将軍家光に献上された。その後若干の出入りがあ ったが、結局徳川将軍家に
 伝来し、関東大震災後、蔵刀を焼失 した水戸徳川家に贈られた。

          重要美術品(水戸徳川家蔵)
            小太刀 銘 長光
             刃長 1尺9寸5分
            代附 25枚


愛刀 “会津正宗” 
 
   この太刀は、経緯は不明ながら蒲生氏郷が所有し、蒲生秀行の
 時に将軍家康に献上された。その後、家康より尾張大納言義直 に
 譲られたが、義直は二代将軍秀忠に献上。再び義直が賜わっ て、
 以降尾張徳川家に伝来した。明治に入り、尾張徳川家より
 有栖川宮熾仁親王に献上、さらに有栖川宮熾仁親王から明治天皇に
 献上された。
 
       太刀 大磨上無銘
         刃長 2尺1寸6分(磨上)
         代附 無代


家紋 “対い鶴”

  蒲生氏の家紋は「鶴の丸」ともいわれてるが、当時は左右非対称の
 この「対い鶴」だったよう。一般的な「対い鶴」は羽をひろげ、2羽で丸を
 作ったような図柄だが、この「蒲生対い鶴」は2羽の立ち姿が優雅。

  鶴を紋とした由来は、1441年の嘉吉合戦に参加した蒲生秀綱という人が、
 敗走中に道に迷った時、鶴が蒲生氏の旗をくわえて飛び立ち、その鶴を追っていたら
 窮地を脱出することができたことからだそう。以後鶴を家紋とした。


藤堂高虎

秀吉と家康が惚れ込んだ男 「三大築城名人の一人 藤堂高虎」

秀吉と家康が惚れ込んだ男
「三大築城名人の一人 藤堂高虎」



愛刀 “備前国兼光”(びぜんこくかねみつ)

武具 “唐冠 大脇立兜具足”

家紋 “蔦紋/藤堂蔦”(つたもん/とうどうつた)



藤堂高虎

1556年に生を受けた藤堂高虎は「虎退治」として、その名が知られているが、
同時に「築城の名手」としても有名であった。彼の築いた城の代表は、
熊野の赤木城のほか、伊賀上野城や丹波亀山城などがある。高虎は
約190センチメートルの巨体を持つ巨漢の持ち主。数々の武勇伝を誇るだけ
ではなく、熊野を含む津藩の内政にも気を配り、人々からの人気も相当なものだった。
また、茶の湯や、文学などの文化に優れた人物でもあったといわれている。


愛刀 “備前国兼光”

兼光は南北朝時代の備前長船派を代表する名工。元は1メートルを超える
長大な太刀。鎌倉流ののたれ文を焼いているが、刃縁は備前の匂出来で、
静かなうねりとなっている。太閤秀吉の遺物で、藤堂高虎から徳川家に伝えられた。



武具 “唐冠 大脇立兜具足”






家紋 “蔦紋/藤堂蔦”


蔦紋は子孫繁栄の象徴として用いられる。
もともと藤堂家の家紋は「ほおづき草」だったが、高虎が秀吉から桐紋を
用いることを許された際、「それでは恐れ多いから」と、桐紋の上方にある
花の部分を取り「蔦紋」として用いるようになったそう。
高虎の巧妙さが表わされている紋でもある。



藤堂高虎にまつわる言葉


「武士たるもの7度主君を変えねば武士とは言えぬ」

 藤堂高虎は武勇伝と共に、主君を次々と変えていったことが有名なことから
「変節漢」と悪評判を受けることもあった。しかし彼は「武士たるもの7度
主君を変えねば武士とは言えぬ」という家言を残すなど、強いポリシーを持って
行動していた。
 自己を高く評価してくれる主君に仕官するという考え方は、彼にとっての武士道の
「筋を通す」こと。実際、彼は織田信長や豊臣秀吉など6回の主君を経て、
7回目の最後に徳川家康の家臣となった。その際に家康に与えられたのが、
熊野を含む伊勢津藩だった。
 22万石の録を受けた藤堂高虎は、後に江戸城の普請などにも功を挙げて、
家康から別格の厚遇を受けることとなり、最終的には32万石を領する大名となる。
そればかりではなく彼は藩内の商業や農業の活性化などにも成功し、人々から
「名君」として敬われ、その藩の繁栄は幕末まで続くほどのものだったといわれている。



「常に死を覚悟していれば、心は動じない」

人間、死んでしまえばもうそれまで。
逆に言えば死ぬことを覚悟できればもう恐れることは何もない。

常に死を覚悟するなどということは並々ならぬこと。
だから「どうしてもこれだけは」という一事だけでも死を覚悟する。
そうすれば八方塞と思えていた道が案外、簡単に開けるものかもしれない。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。