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立花道雪

雷神の化身といわれた武神「大友の鬼 立花道雪」


雷神の化身といわれた武神
  「大友の鬼 立花道雪」



愛刀 “雷切”(らいきり)

愛馬 “戸次黒”(べっきぐろ)

家紋 “祇園守紋”(ぎおんまもりもん)


立花道雪


立花道雪は、若いときに落雷を受け、下半身不随になったと言われている。
この時、雷の中にいた雷神を斬り、その刀に雷切と名づけ
生涯傍らに置いていたという伝説もある。

下半身不随のため、輿に乗って指揮をとったが、窮地に陥れば
「我を敵の中に担ぎいれよ。命が欲しければ、その後で逃げよ。」
と下知していた為、立花道雪の軍は異常に強かった。

道雪は「武士に弱いものはいない。もし弱いものがいれば、
それは大将の責任である。」と常々語っていたと言う。

非常に部下思いの武将で、武功の無い武士がいると
「運不運が武功にはある。そなたが弱い者ではない事は、
我が見定めている。手柄を立てようと焦って討ち死になどしてはならん。
それは不忠である。この道雪はお前達を連れているからこそ
年老いても敵の真ん中に出て戦えるのだ。」と語りかけ、酒を酌み交わした。

客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたが
この者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」
と客に話し部下に恥をかかせなかったなど、この種の逸話には事欠かない人物である。

主君・大友宗麟が、飼っていた猿を家臣たちにけしかけて、面白がっていた。
宗麟が道雪に猿をけしかけると、道雪は持っていた鉄扇で猿を叩き殺し「
人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と説教した。

「たとえ折檻を受けても、主人の過ちをただすのが臣たる者のつとめである。
自分の命は露ほども惜しくはない。それより主人が、世間の外聞を失う事が
無念である。」と言う言葉が、立花道雪覚書に記されている。


愛刀 “雷切”

木の陰で雨宿りしていた立花道雪を雷が襲った時、道雪は所持していた刀千鳥で
その雷(雷神)を切ったとされる。実際に切ったかどうかははっきりしていないが、
道雪は雷に打たれ半身不随になりながらも生きていたため、人々は道雪が雷を切った、
雷神を斬ったなどと噂したという。

この事件の後、道雪は千鳥の名を改め雷切としたといわれている。

なお、元の名は「千鳥」だが、徳大寺家に伝わっていたとされる
同名の刀とは無関係である。



愛馬 “戸次黒”

戸次家に伝わる名馬


家紋 “祇園守紋”
立花道雪 家紋

かつて祗園社、祗園天神と称した京都東山にある八坂神社のお守りの事。
原型はお札を入れた竹製の「筒守り」を松の枝に紐で結び、
歌を書いた短冊を下げたものである。やがて筒は呪符を表すx印に移行し、
神の霊力の誇示などから装飾が施され、祗園守が生まれたとされている。

母里太兵衛

母里太兵衛


大酒飲みで知られた武将
「黒田長政の名物家臣 
      母里太兵衛(もりたへえ)」



愛槍 “日本号”(にほんごう)




母里太兵衛


母里太兵衛の本名は但馬守友信、播磨姫路近郊の妻鹿(めが)出身で
黒田孝高(官兵衛)・長政親子に仕えた人物である。「黒田二十四騎」中の
「黒田八虎」の一人に数えられた勇将で槍術にすぐれ、
栗山備後守利安とともに黒田長政の先手左右の大将として、
朝鮮の役等数多くの合戦で活躍した。またその性格は豪放で、
主君に向かって数々の直言・強諫を残している豪傑型の武将である。


愛槍 “日本号”

この日本号という槍は、もとは正親町天皇の所有されていたもので、
信長、秀吉の手を経たのち正則が所有していた、正則自慢の天下の名槍である。

豪傑酒豪として知られている福島正則との飲み比べに勝ち、
約束通り秘蔵の名槍・日本号をもらったとされる。
 太兵衛はこの槍をかつぎ、黒田藩歌の「筑前今様」を吟じながら
」ゆうゆうと帰っていったという。
これが後に替え歌となり、現在謡われている「黒田節」に至る。




八幡太郎義家

八幡太郎義家


「八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)」



愛刀 “三池典太”(みいけてんた)


家紋 “向かい鳩”(むかいばと)



八幡太郎義家


八幡太郎義家(1039-1106)とは通称の呼び名で、本名は源義家
(みなもとのよしいえ)。鎮守府将軍頼義の長男として平安時代に生まれた。

父とともに1051年より前九年の役で戦い、陸奥の豪族安部貞任
(あべのさだとう)らを討ち、その功により従五位下出羽守に任ぜられた。

1083年、陸奥守兼鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)になった義家は
奥州清原氏の家督相続争いを 治めるために介入し(後三年の役)、これを平定。
ただしこの戦いは私闘とみなされ、義家は朝廷から功賞を得られなかった。
そこで私財を投じて部下たちをねぎらったと言われている。

奥州に向かう際、勿来の関(現いわき市勿来の関跡)で義家が詠んだ歌
吹く風を 勿来の関と 思へども
道もせに散る 山桜かな
は、千載集にも載っている有名な和歌である。

八幡太郎義家は文武両道でたくましい子供に育ってほしいとの願いを込めて
節句幟に描かれてきた。いわき絵のぼりの八幡太郎は、この勿来の関を
通過する際に歌を詠んだ場面が描かれてる。



愛刀 “三池典太”



家紋 “向かい鳩”

楠木正成

楠木正成


「楠木正成(くすのきまさしげ)」



愛刀 “小竜景光”(こりゅうかげみつ)


家紋 “菊水紋”(きくすいもん)



楠木正成


楠木正成は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物。
永仁2年(1294)、ここ千早赤阪村の水分で生まれたといわれている。
正成が生まれたころ、140年あまり続いた鎌倉幕府は衰え、
秩序が崩れていた。 そのなかで、政治を武士から天皇に戻そうという
気運が高まっていた。大きく時代が変わろうとしているときであった。
元徳3年(1331)、正成は後醍醐天皇の皇子護良親王とあわせて、
鎌倉幕府に 対抗するため下赤坂城で兵を挙げる。元弘3年(1333)には、
千早城に100日間籠城し、鎌倉勢を釘付けにした。

この間に、新田義貞(1301~38)らが鎌倉へ攻め込み、鎌倉幕府は滅亡。
このことから、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅亡に導いた功労者として、
正成を従五位下検非違使に任命した。
その後、建武3年(1336)、天皇を中心とした政治に疑問を持ち
反旗をひるがえした足利尊氏(1305~58)に湊川の戦いで破れ、自害。



愛刀 “小竜景光”

小竜景光は鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工・景光作の太刀である。
鎺元(はばきもと)に精緻な倶梨伽羅竜の彫り物があることから
この名がある。
楠木正成(楠公)の佩刀であったと伝えられていることから
「楠公景光」とも呼ばれる。



家紋 “菊水紋”

楠木正成が後醍醐天皇より下賜された菊水紋。建武の新政が成った時、
その功績として「菊紋」を下賜されたが、畏れ多いとして
半分を水に流し「菊水紋」にしたといわる。

ちなみに楠木正成の旗として
「菊水紋」に「非理法権天」と書かれたものと「蟠龍起萬天」と大書きされ、
その右側に「元弘辛未歳二月 日」、左側に「正成」の署名が入っているものが知られている。

足利義輝

足利義輝


「足利義輝(あしかがよしてる)」



愛刀 “大般若長光”(だいはんにゃながみつ)


家紋 “七つ割二引紋”



足利義輝


室町幕府第13代将軍。父は義晴,母は近衛尚通の娘。幼名菊幢丸。
天文15(1546)年12月,父義晴が三好長慶に追われて近江坂本に滞在中
同地で元服,将軍に任官した。初名義藤。その治政の大半は,
摂津守護代,次いで天下人となった長慶の台頭に押され,
彼との対立と和睦に明け暮れた。同19年東山中尾に築城して
京都をうかがい,翌々年1月入京するも同22年8月霊山の戦で
長慶に敗れ,永禄1(1558)年末に講和入京するまで近江朽木に
幽居を余儀なくされる。幽居中の居館秀隣院は名庭で知られる。
鉄砲技術の導入に意を用い,自ら撃剣を塚原卜伝に学んだと伝えられる。
また長慶打倒に暗殺団を組織して長慶の岳父遊佐長教を殺害するなど,
将軍権威の回復に執念を燃やした。帰京翌年には上杉景虎,斎藤義竜,
織田信長らを在京させ長慶を牽制,三好政権と小康を保つが同7年5月
長慶没後は三人衆と対立,翌年5月,京都武衛陣の仮御所で松永久秀らに
包囲され自刃した。


愛刀 “大般若長光”




家紋 “七つ割二引紋”

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