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柳生 十兵衞

江戸時代の剣豪「柳生新陰流 柳生 十兵衞」


江戸時代の剣豪
「柳生新陰流 柳生 十兵衞」



愛刀 “三池典太”(みいけてんた)

家紋 “地楡に雀紋”(われもこうにすずめもん)
    “二階笠紋”(にまいがさもん)



柳生 十兵衞

柳生 十兵衞(本名: 三厳( みつよし))は、江戸時代の武士、剣豪。
旗本である(ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数えられる場合もある)。
よく知られた「柳生 十兵衞(やぎゅう じゅうべえ)」の呼び名は通称。

徳川家光の小姓として仕え、後に剣術指南役をつとめたが、20歳で勘気を被り(諸説あり)、
小田原の阿部正次にお預けの身となる。その後12年ほど諸国を放浪し、武者修行や
山賊征伐をしていたと言われているが実際の行動は不詳である。
このことが講談の種となり、今日に至るまで彼を主人公とした様々な物語が
生まれることとなった。また新陰流には杖術が十兵衛杖として伝承されている。

父の死後、三厳と宗冬との間で遺領が分割されて石高が1万石を切ったために、
三厳が大名に列した事はないが、死後に弟の宗冬が三厳の遺領を相続したことにより
再度大名としての地位を回復させたために、便宜上三厳が大和柳生藩第2代藩主とされている。
慶安3年(1650年)に死去。享年44。死因は不明だが、鷹狩りに出掛けた先で卒中を起こした、
沼に嵌まって水死した、何者かに斬殺されているのが発見された等々諸説ある。三厳の死後、
2人の娘は、弟の宗冬によって養育された。


芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。中央が三厳の墓墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺
および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。

後世、片目に眼帯をした姿で描かれることが多い。若い頃に失明したと
伝えられているからである。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の
打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たったとか、宗矩が十兵衛の技量を
見極めるために礫を投げつけて目に当たったなど、諸説ある。
しかし、肖像画の両目はあいており、信頼に足る資料・記録の中に十兵衛が
隻眼であったという記述は1つも見られない。


愛刀 “三池典太”


三池典太
平安後期の筑後(福岡県)の刀工。薩摩(鹿児島県)の波平一派とならんで,
九州で最も古い刀工。三池郡に住したところから三池典太と称された。
最古の刀剣書『観智院本銘尽』には元久(1204~06)ごろの豊後行平の師としている。
現存する在銘作品は,室町将軍家代々の重宝で,その後前田家に伝来した名物
「大転多」(国宝)がただ1点あるに過ぎない。その作風はこの時代のものとしては
身幅が広く,大板目肌の流れた鍛えに,細直刃がほつれた刃文を焼き,
九州物共通の特色を示している。また,無銘であるが久能山東照宮蔵の
徳川家康の遺品も光世の作と伝える。





家紋 “地楡に雀紋”
柳生 十兵衞 家紋

       “二階笠紋”
柳生 十兵衞 家紋 二枚笠

柳生家は「地楡(吾亦紅=われもこう)に雀」と「二階笠」を家紋に用いている。
いずれも珍しい家紋で、「地楡に雀」は数ある日本の家紋のなかでも
柳生家ただ一氏のみが使用している家紋である。ちなみに地楡はバラ科の植物で、
「ちゆ」とも呼ばれ、吾亦紅、吾木香とも書かれる。秋に暗紅色の可憐な花をつけ、
「われもこうありたい」というはかない思いをこめて名づけられたという。
根は生薬でタンニンを含み、止血剤として用いられ漢方薬の原料ともなっている。

 何故、柳生家が地楡に雀を用い出したのかは不明であるが、
地楡のもつ止血剤としての効果が有り難がられた結果かも知れない。
一方、二階笠の方は津和野の大名坂崎出羽守直盛から譲られたものだという。

 坂崎出羽守は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、炎に包まれ落城寸前の
大坂城から徳川家康の孫娘千姫を救出した人物として知られる。俗説では、
家康は千姫を救出したものには千姫を与えると約束していたが、
直盛に対してそれを履行しなかった。

 この家康の虚言に怒った直盛は千姫の輿入れ行列を襲おうとしたというのが、
「千姫事件」というがもとより信じられない。一説にいうところの、
直盛が千姫と京都の公家との縁談をまとめたのに対して、
幕府は本多忠刻との話を進めたので、怒った直盛が千姫の行列を襲おうとした
とする方が話としては頷ける。いずれにしても、坂崎直盛は幕府に対して
武士の一分を通そうとしたものであろうが、幕府に対する謀叛とされたのも仕方がなかった。

 この千姫事件に際して、幕府は直盛のもとに柳生宗矩を遣わして、
その説得にあたらせた。宗矩の武士らしい説得に感じた直盛は、
その説得を受け入れると自刃して果てた(異説もあるが)。
このとき、直盛は宗矩の労に謝して「二枚笠」の紋を贈ったのだという。
以後、柳生家は二枚笠を紋として用いるようになったと伝えている。



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