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加藤清正

加藤清正


  「加藤清正」



愛刀 “同田貫正國”(どうたぬきまさくに)

愛馬 “帝釈栗毛”(たいしゃく くりげ)

家紋 “蛇の目紋”(じゃのめもん)
    “桔梗紋”(ききょうもん)

加藤清正


永禄5年(1562)、尾張中村生まれ。加藤清忠の子。幼名、虎之助。
母が秀吉の生母の従姉妹(伯母とも)にあたるため、三歳で父を失ったあと

秀吉に預けられ、秀吉とその正室ねねに養育を受けた、と言われる。

初陣は二十歳。その後、秀吉に従って出陣を繰り返し、都度、戦功を立て、
賤ヶ岳の合戦では、七本槍の筆頭に上げられる。

天正13年(1585)、秀吉の関白就任に伴い、従五位下、主計頭。
15年(1587)、九州征伐。翌年(1588)、佐々成政改易後、
隈本(熊本)城入城。肥後半国、25万石。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵にともない渡海。京城を落し、
会寧で朝鮮国の王子二人を捕らえ、”鬼将軍”と異名を取り、恐れられる。
慶長の役でも蔚山の戦いで武勇を高める一方、陣中において石田三成と不和。
国内に召還される。これ以来、三成派と対立。福島正則らとともに反三成派の筆頭となる。

秀吉の死後は、三成らとの溝を埋めようもなく、前田利家の死の直後、
七将とはかり、三成を襲撃するが未遂。五奉行から失脚させられる。

関が原においては家康を支持して東軍に属し、九州にあって西軍の将、
小西行長の各城を落す。戦功により、肥後51万5千石。従五位上、肥後守に就任。

しかし清正は、家康を支持する一方で終生豊臣家への忠誠を忘れなかった。
家康が江戸幕府をひらくと、これに臣従しつつ、豊臣と徳川の関係調整に奔走し、
家康と秀頼の会見を実現させるなど、秀頼との関係を断たずに尽くした。

清正は城造りの名人として知られ、慶長初年ごろから熊本城を築城したが、
これは天下の名城として名高く、朝鮮出兵のおり、半島風の技術を学び
持ち帰ったという説もあって、石垣の構築に清正独特の工夫がこめられている。
名古屋城天守台も清正の構築である。

慶長16年(1611)、6月24日急死。50歳。毒殺の噂もあるほど、豊臣家に衝撃が走った。



愛刀 “同田貫正國”

加藤清正から一字を授かったという切銘の正国(九州肥後同田貫藤原正国、また
は上野介)が一番しられ、もともと同田貫は清正の抱えであったとも伝えられる。



愛馬 “帝釈栗毛”

名前の由来は、仏教の「帝釈天」と、栗毛だったことで
帝釈栗毛と付けた。
この馬は、6尺3寸(約1.9メートル)の、大きい馬である。
当時から、有名だったそうで
「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通りゃれ 帝釈栗毛」と歌われた名馬。


家紋 “蛇の目紋”

       “桔梗紋”

加藤家の紋は清正の甲冑(かっちゅう)に用いられている「蛇の目(じゃのめ)」
が有名だが、「桔梗(ききょう)」紋も用いていたことはあまり知られていない。
天正16年(1588年)清正は肥後北半国19万5000石の領主に任じられた。
それまでは5500石余りの侍大将だったので大抜擢である。

清正が肥後に赴くにあたり、秀吉は前年に改易(かいえき)した讃岐(さぬき)
の尾藤知定(びとうともさだ)の武具・調度一切を清正に与えた。
侍大将から領主への大出世ですが、それに相応しい兵力も道具も当然不足する。
秀吉が親心から配慮したものでだろう。

その尾藤家の紋が「桔梗」。清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使い、
自分の家紋にした。また、清正は旧尾藤家の家臣300名余りを、自分の家臣として
召し抱えていたので、彼等も誇りを傷つけられることなく存分に働いたと言われている。
また、清正はあとひとつ「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていた。         
戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」というふうに、
用途により3種類を使い分けていたそう。

熊本城の頬当御門(ほほあてごもん)の横にそびえる宇土櫓(うとやぐら)の軒に
使われている丸瓦の紋は、細川時代の九曜紋(くようもん)、加藤時代の桔梗紋、
火難除けの巴紋(ともえもん)の3種類の瓦が混在している。


加藤清正にまつわる言葉


“熊本城”

1588年(天正16年)6月、加藤清正(1562~1611)は隈本城に入城、
小西行長は宇土城に入城した。

早速、清正は隈本城(古城)の修造を試みたが関ヶ原の役が終了するまで
外征が続いて肥後に留まることが少なく、城の改築も手つかずであった。


肥後を分割統治した加藤清正と小西行長は性格も大きく異なり、奉ずる宗教も
清正の法華経に対し、行長は熱心なキリスト教信者であった。文禄・慶長の
朝鮮出兵において両者の亀裂は拡大し、1600年(慶長5年)、関ヶ原の役で
清正は石田三成と対立、石田方についた小西行長を滅ぼした。
同じく石田方の島津氏を降伏させた功により、徳川家康から小西領を与えられたが、
キリシタンの多い小西領・天草の統治を嫌った清正は、天草領と豊後3郡の一部を
交換してもらい肥後54万石の藩主となった。豊後3郡の領地を得たことで清正は
中央への通路を確保することになった。

大藩の藩主となった加藤清正は家康から築城の許しを得、1601年(慶長6年)から
7年の歳月をかけて茶臼山丘陵に平山城を築城した。標高50mの茶臼山丘陵は
東側を坪井川、西側を井芹川に挟まれ、谷と湿地帯が作り出すこの東高西低の地形は
東、北、南が断崖となった天然の要害で、築城に相応しい場所であった。


城が完成した1607年(慶長12年)、清正は「隈本」の呼称を「熊本」と改めた。

「隈本」の「畏」が「恐れる・怯える」に通じるのを嫌ったと言われる。

築城を記念して本丸前に2本の銀杏の木が植えられたことに因み「銀杏城」とも呼ばれる。
そしてかつての隈本城、即ち千葉城・古城は熊本城の縄張りに含まれた。

大坂城・名護屋城の築城、朝鮮出兵における数々の築城に携わった清正は、
築城技術だけでなく治水・灌漑事業にも抜群の腕をもっていた。

井芹川の流れを変えて水量を増やし下流水田地帯の灌漑用水とした治水事業は、
現在でも高い評価を得ている。

清正の治水事業は有明海沿岸の干拓の他、白川・菊池川・球磨川・緑川の各河川に及び、
河川改修によって開墾した新田は肥後領内だけで2万5千町歩もあったと言う。






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