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明智光秀

逆賊などと揶揄された、武家の作法や公家文化に通じた武将 「敵は本能寺にあり!」明智光秀

逆賊などと揶揄された、
   武家の作法や公家文化に通じた武将
「敵は本能寺にあり! 明智光秀」


愛刀 “備前近景”(びぜんちかかげ)

  
家紋 “桔梗”(ききょう)



明智光秀

岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・
土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、
道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、
明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死した。
光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする
極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。
※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、
煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとした。しかし、光秀はこれを見抜き、
煕子を妻に迎えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に
(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。

やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。
1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として
通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が
中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(38歳)、
13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が
朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)
と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。




愛刀 “備前近景” 
 
明智光秀の愛刀として伝えられているのが「備前近景」。
この刀の茎には「備州長船近」という不完全な銘が切ってある。
これは幕末期にこの刀を入手した庄内藩勘定奉行が、
明智日向守所持という所持銘が入っていたため、
逆賊・光秀の名を憚って刷り落とさせたそう。
近景は備前長船長光の門下で南北朝時代に活躍した刀工で、
備前近景は重要美術品として現存。




家紋 “桔梗”
明智光秀 家紋

  清和源氏頼光流・土岐一族の代表家紋である。使用家は他に加藤清正、
坂本龍馬などがそうであった。江戸時代においては特に家紋を衣服につけるのは
男性のみであったので、婦人はこの桔梗を小型に線書きしたものを用いていた。
特にこれを発祥とした紋が多く、丸に桔梗、八重桔梗など百種以上にも及ぶ。
分布は土岐氏の勢力範囲であった美濃・飛騨を中心に中部地方から西に拡がっており、
使用家の多さもベスト10に入る有名紋である。
余談だが、我が家の母方がこの桔梗紋である。
頼光流では太田、遠山、池田、高田、脇坂、福島、三沢、菅沼の諸氏、義家流では
松平、花井、榊原、小柴氏などがあり、清和源氏系との結びつきの強さが伺える。


明智光秀にまつわる言葉

本能寺の変(ほんのうじのへん)

天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、
京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。
暗殺事件との解釈もなされる。
だがこの後、毛利に苦戦中だった豊臣秀吉がアッという間に和睦をまとめ、
京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。
最期は農民に竹槍でつかれるという悲惨なものだった。
光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。



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