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蒲生氏郷

武両道に優れた名将 「風流の利発人 蒲生氏郷」

文武両道に優れた名将
「風流の利発人 蒲生氏郷」


愛刀 “会津新藤五”(あいづしんとうご)

    “鉋切長光”(かんなぎりながみつ)

    “会津正宗”(あいづまさむね)
  
家紋 “対い鶴”(むかいつる)



蒲生氏郷

蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚。
現在の会津若松の基礎は彼によって築かれた。黒川を会津と
改めたのも蒲生氏郷である。文武両道に優れた人材だったが、
わずか40才でこの世を去る。

 氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として
知られるが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する
文化人としても有名。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほど。
利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、
利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を
死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、
茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあった。





愛刀 “会津新藤五” 
  
  この短刀は、所持者である蒲生氏郷が会津を領有していたこと
 から名付けられた新藤五国光の最高傑作である。氏郷から秀 行、
 忠郷と伝えられ、森川半弥に贈答。それを前田利常が金百 枚で購入し、
 元禄15年4月に、将軍綱吉に献上され徳川将軍家 に伝来。

     国宝(東京都個人蔵)
       短刀 銘 国光
         刃長 8寸4分  内反り
         元幅 7分8厘  元重 2分4厘
         代附 200枚


愛刀 “鉋切長光” 

  この小太刀は、近江の堅田又五郎が、大工に化けた妖怪を鉋ごと
 斬ったことから名付けられた。その後六角氏から織田信長、丹 羽長秀、
 蒲生氏郷とわたり、氏郷の死後、寛永元年4月14日に 蒲生忠郷より
 将軍家光に献上された。その後若干の出入りがあ ったが、結局徳川将軍家に
 伝来し、関東大震災後、蔵刀を焼失 した水戸徳川家に贈られた。

          重要美術品(水戸徳川家蔵)
            小太刀 銘 長光
             刃長 1尺9寸5分
            代附 25枚


愛刀 “会津正宗” 
 
   この太刀は、経緯は不明ながら蒲生氏郷が所有し、蒲生秀行の
 時に将軍家康に献上された。その後、家康より尾張大納言義直 に
 譲られたが、義直は二代将軍秀忠に献上。再び義直が賜わっ て、
 以降尾張徳川家に伝来した。明治に入り、尾張徳川家より
 有栖川宮熾仁親王に献上、さらに有栖川宮熾仁親王から明治天皇に
 献上された。
 
       太刀 大磨上無銘
         刃長 2尺1寸6分(磨上)
         代附 無代


家紋 “対い鶴”

  蒲生氏の家紋は「鶴の丸」ともいわれてるが、当時は左右非対称の
 この「対い鶴」だったよう。一般的な「対い鶴」は羽をひろげ、2羽で丸を
 作ったような図柄だが、この「蒲生対い鶴」は2羽の立ち姿が優雅。

  鶴を紋とした由来は、1441年の嘉吉合戦に参加した蒲生秀綱という人が、
 敗走中に道に迷った時、鶴が蒲生氏の旗をくわえて飛び立ち、その鶴を追っていたら
 窮地を脱出することができたことからだそう。以後鶴を家紋とした。


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