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直江兼続

日本史上屈指の挑発文・直江状 「是非に及ばず 直江兼続」

日本史上屈指の挑発文・直江状
「是非に及ばず 直江兼続」



愛刀 “三条宗近”(さんじょうむねちか)

武具 “金小札薄浅葱糸威二枚胴具足”
     (きんこざね
      うすあさぎいとおどしにまいどうぐそく)


家紋 “三つ盛亀甲花菱”
    (みつもりきっこうはなびし)



 
直江兼続

 直江山城守兼続【なおえやましろのかみかねつぐ】は越後の大名、
上杉景勝に仕えた武将で、戦国時代末期から江戸時代初期まで、
上杉家を文武の両側から支えた知将である。

 直江兼続といえば、兜に大きな「愛」文字の前立が有名だが、
この「愛」の由来は伝わっておらず、愛染明王【あいぜんみょうおう】か
愛宕権現【あたごごんげん】の「愛」と推測される。

 少年時代、上杉謙信から
「天下を取ることなどは小事に過ぎず、それよりも“義”を貫いて
生きることの方が大事」
と諭された直江兼続は、謙信の死後、越後の命運を握ることになった
上杉景勝を支えながら、「義」を貫く生き方を志す。






愛刀 “三条宗近”

平安時代の刀工で、京の三条に住んでいたため三条宗近の呼び名があり、
代表作の三日月宗近は国宝に指定されており、天下五剣の一つに数えられている
名刀中の名刀である。



武具 “金小札薄浅葱糸威二枚胴具足”



 「愛の前立」がついた甲冑。この「愛」の一字は、愛染明王もしくは
愛宕権現の「愛」の字からとったものである。上杉景勝所用の甲冑にも
愛染明王など六神を彫った前立ての兜が現存する。



家紋 “三つ盛亀甲花菱”

亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)
に対する守りという意味があったのであろう。

直江兼続の家紋としては「亀甲に三つ葉」と「亀甲に花菱」の2つが
混在するが 花菱柄はよろいや位牌(いはい)など複数に見られるが、
三つ葉柄は肖像画にしか見られない。その肖像画は1度焼失し、
江戸後期に描き直されたものだという。 そのため家紋について
「三つ葉とする根拠は薄く、花菱と考えられる」といわれている。



直江兼続にまつわる言葉

直江状

 兼続を強く世に知らしめたことといえば、何より「直江状」と呼ばれる書状である。
これは関ヶ原の際、上杉家が軍備増強や領内の整備、城の改築をしていることを
「謀反の兆しあり」と家康が言いがかりをつけてきたことに対する返書のことである。

 「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ色々な風説が飛びかうのに、
上方とここ会津は非常に遠く、どんな間違った風説がたとうとも何ら不思議ではない。

また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を一年もたたずに踏みにじり、
諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。景勝には謀反心など全くない。

上方では茶の湯など、およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かして
おられるようだが、我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう
武具をととのえ人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。

道を整え河川を修復するのは領民のため以外に何があろう。一国の領主として
当然のことではないか。それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?

前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。

我々は心ない人々の告げ口にいちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。
このような理不尽なことでわれらを咎められるおつもりならばそうされよ。
いつでもお相手をいたそう」

 家康相手にここまで言い切ったのは、日本広しと言えども兼続ただ一人である。

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