戦国武将の愛刀・家紋 > 豊臣秀吉

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豊臣秀吉

農民から関白へ上り詰めた男「戦国一の出世頭 豊臣秀吉」

農民から関白へ上り詰めた男
「戦国一の出世頭 豊臣秀吉」



愛刀 “一期一振”(いちごひちとふり)
    “孫六兼元”(まごろくかねもと)


武具 “唐冠兜 馬簾後ろ立て”
    (とうかむりかぶと ばれんうしろだて)
     “当世具足”(とうせいぐそく)


愛馬 “内記黒”(ないきぐろ)

家紋 “五七桐紋”(ごしちのきりもん)



豊臣秀吉

 豊臣秀吉は百姓の子であったが、
その能力を認められ織田信長の家臣として仕えた。
備中(現在の岡山県高松)で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は、
織田信長が本能寺の変で明智光秀にそむかれ自害したと 聞くと、
毛利氏と和議を結び、京都に兵を返し、本能寺の変からわずか11日後に
明智光秀を討った。
農民の子供がここまで出世できたのも信長のおかげ。
信長の意思を受け継ぎ、天下統一に乗り出した。
その後、織田家の有能な家臣たちをも破りついには信長の後継者となった。
また、徳川家康とも戦うが決着がつかず和睦。
朝廷から関白となり、天皇から大名間の戦いや一揆をすべてまかされた。
検地や刀狩を行い、1590年小田原の北条氏を破り天下統一を達成したが
その野望は留まらず、朝鮮侵略に乗り出した。
朝鮮侵略は2度行われたが一度は優勢になるも、結局2度とも失敗し
朝鮮侵略で苦戦する最中、62歳で生涯を閉じた。



愛刀 “一期一振”

粟田口藤四郎吉光作


愛刀 “孫六兼元”



武具 “唐冠兜 馬簾後ろ立て”

     “当世具足”



唐冠を模した兜に、元来植物を模したと言う馬簾後ろ立てを立て、
自らを太陽の子とし【太陽】イメージした秀吉得意の
パフォーマンスの現れであろうか、伝統をくつがえし【顕示欲】を表現する、
その兜は戦国期を代表する斬新な変わり兜の1つで、その子飼いと言われる、
加藤清正(烏帽子兜)福島正則(一之谷兜)加藤嘉明(富士山形兜)など、
以後の戦国武将へも大きく影響を与えた具足と言える。




愛馬 “内記黒”

  
のちに長宗我部元親が拝領した名馬。葦毛の馬である。戸次川の戦いにて
仙石秀久の無謀な策により嫡男である信親を討たれ、窮地に陥った元親を乗せて命を救った。



家紋 “五七桐紋”
豊臣秀吉 家紋

  桐紋は天皇家の家紋。

 桐は中国では聖王をあらわす瑞鳥、鳳凰が止まる木として縁起のいいもの
とされる。

 ところが、この桐は梧桐(アオギリ)のことを言っており、青い高木で黄色い
 花を咲かせる。
 桐紋の桐は白桐で、紫色の花を咲かせる。

 日本の桐紋は、白桐の実形にアオギリの瑞祥の意味を加えて完成したもの。

 皇室の紋としての桐紋は鎌倉時代に完成したようで、菊紋同様後鳥羽上皇のと
 きではないかと推測されている。

 室町期の後醍醐天皇のときには足利尊氏に桐紋を下賜したとかかれており、こ
 のときにはすでに皇室の紋になっていることが明らかになっている。

 こうして、桐紋は菊紋と同様に皇室の紋になり、多くの武家に下賜る。
 ちなみに、13代足利義輝から織田信長に桐紋が与えられている。
 このように、天皇家から武家に。
 さらに、武家から武家に桐紋が伝わっていく。

 その中には豊臣秀吉もおり、彼はその桐紋を愛し、おのれの権力を誇示するた
 めにも工芸美術品の多くにつけられ、桃山時代の美術品の多くには太閤桐と呼
 ばれる紋がすえられ、自己のPRにも役立てた。

 さらに、秀吉は景気よく家臣に桐紋を与えたことも桐紋普及に役立った。

 また、この桐紋は政府の紋章のようにも使われている。
 500円硬貨の裏側は桐だし、パスポートにも使用されており、よく小泉首相
 が外国人記者に向けた会見をする際には、マイクの置かれた壇には桐の紋章が
 描かれている。





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