戦国武将の愛刀・家紋 > 藤堂高虎

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藤堂高虎

秀吉と家康が惚れ込んだ男 「三大築城名人の一人 藤堂高虎」

秀吉と家康が惚れ込んだ男
「三大築城名人の一人 藤堂高虎」



愛刀 “備前国兼光”(びぜんこくかねみつ)

武具 “唐冠 大脇立兜具足”

家紋 “蔦紋/藤堂蔦”(つたもん/とうどうつた)



藤堂高虎

1556年に生を受けた藤堂高虎は「虎退治」として、その名が知られているが、
同時に「築城の名手」としても有名であった。彼の築いた城の代表は、
熊野の赤木城のほか、伊賀上野城や丹波亀山城などがある。高虎は
約190センチメートルの巨体を持つ巨漢の持ち主。数々の武勇伝を誇るだけ
ではなく、熊野を含む津藩の内政にも気を配り、人々からの人気も相当なものだった。
また、茶の湯や、文学などの文化に優れた人物でもあったといわれている。


愛刀 “備前国兼光”

兼光は南北朝時代の備前長船派を代表する名工。元は1メートルを超える
長大な太刀。鎌倉流ののたれ文を焼いているが、刃縁は備前の匂出来で、
静かなうねりとなっている。太閤秀吉の遺物で、藤堂高虎から徳川家に伝えられた。



武具 “唐冠 大脇立兜具足”






家紋 “蔦紋/藤堂蔦”


蔦紋は子孫繁栄の象徴として用いられる。
もともと藤堂家の家紋は「ほおづき草」だったが、高虎が秀吉から桐紋を
用いることを許された際、「それでは恐れ多いから」と、桐紋の上方にある
花の部分を取り「蔦紋」として用いるようになったそう。
高虎の巧妙さが表わされている紋でもある。



藤堂高虎にまつわる言葉


「武士たるもの7度主君を変えねば武士とは言えぬ」

 藤堂高虎は武勇伝と共に、主君を次々と変えていったことが有名なことから
「変節漢」と悪評判を受けることもあった。しかし彼は「武士たるもの7度
主君を変えねば武士とは言えぬ」という家言を残すなど、強いポリシーを持って
行動していた。
 自己を高く評価してくれる主君に仕官するという考え方は、彼にとっての武士道の
「筋を通す」こと。実際、彼は織田信長や豊臣秀吉など6回の主君を経て、
7回目の最後に徳川家康の家臣となった。その際に家康に与えられたのが、
熊野を含む伊勢津藩だった。
 22万石の録を受けた藤堂高虎は、後に江戸城の普請などにも功を挙げて、
家康から別格の厚遇を受けることとなり、最終的には32万石を領する大名となる。
そればかりではなく彼は藩内の商業や農業の活性化などにも成功し、人々から
「名君」として敬われ、その藩の繁栄は幕末まで続くほどのものだったといわれている。



「常に死を覚悟していれば、心は動じない」

人間、死んでしまえばもうそれまで。
逆に言えば死ぬことを覚悟できればもう恐れることは何もない。

常に死を覚悟するなどということは並々ならぬこと。
だから「どうしてもこれだけは」という一事だけでも死を覚悟する。
そうすれば八方塞と思えていた道が案外、簡単に開けるものかもしれない。




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