戦国武将の愛刀・家紋 > 北条早雲

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北条早雲

戦国時代の幕開け 「戦国大名の北条家の祖 北条早雲」

戦国時代の幕開け
「戦国大名、北条家の祖 北条早雲」



愛刀 “日光一文字”(にっこういちもんじ)

家紋 “三つ鱗(北条鱗)”
     (みつうろこ/ほうじょううろこ)




北条早雲

 名もなき諸国流浪の一介の浪人が、ある日突然小城主になって、
一夜にして伊豆一国を手中に戦国大名に変身した。
戦国の群雄割拠の時代の幕開けにふさわしい人物と言える。

この早雲の生い立ちについては、色々な諸説がある。
伊勢出身の素浪人、京都を追われた名門伊勢氏、
備中の豪族伊勢氏などあるが、妹の北川殿が駿河の守護大名の
今川義忠の正室だった事から一介の素浪人とも思えないが、
妹を頼って駿河に下った時点で無位無冠の浪人には違いない。

 名は伊勢新九郎盛時。長氏・氏茂とも言われる。出家して早雲庵宗瑞と号した。
妹が駿河の守護大名今川義忠に嫁いでいた縁により招かれて今川氏に仕え、
一時、京都に上って幕府の申次衆になったこともあったが、1487年(長享1)
駿河に下って今川氏親の反対勢力を倒し、その功によって駿河興国寺城の
城主となった。1491年(延徳3、一説に1492年)堀越御所の堀越公方を
攻め滅ぼして伊豆に進出し、戦国大名後北条氏の基礎を築き、
さらに1495年(明応4)には小田原城を奪取して相模への第一歩をしるした。
1516年(永正13)三浦義同・義意父子を新井城に攻め相模の平定にも成功した。
『早雲寺殿廿一箇条』は家訓として有名。




愛刀 “日光一文字”

太刀 無銘 名物「日光一文字」 - 備前の名工、福岡一文字作の名刀
日光二荒山に奉納されていた太刀を北条早雲が手に入れて以降、
北条家の家宝となった刀。小田原征伐の際に、北条家との
和平工作に活躍した黒田官兵衛に与えられた。



家紋 “三つ鱗(北条鱗)”
北条早雲 家紋

後北条氏は、伊勢長氏(北条早雲)を祖とし、その家紋は「三つ鱗」である。
三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、
北条氏にならって三つ鱗を用いたものである。

 鱗は魚鱗と解する人もいるが、鎌倉執権北条氏の家紋伝説として
以下のような話がある。

 むかし、北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠して、
子孫の繁栄を祈っていると、その満願の夜の明け方に、緋の袴をはいた
気高い女房が現われて、「汝は前世に六十六部の法華経を書写し、
六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、
栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。
よくよく身を慎まねばならぬぞ」と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、
海中に姿を消した。そのあとに残った三枚の鱗を時政は持ち帰って
家の紋にしたという。すなわち、北条氏の鱗は「竜の鱗」なのである。




北条早雲にまつわる言葉


早雲寺殿廿一箇条
(そううんじどのにじゅういっかじょう)


「早雲寺殿廿一箇条」は早雲が残したといわれる家訓。
この「早雲寺殿廿一箇条」は以降五代に渡って奨励された。
質素倹約を心掛けることや生活習慣、文武の奨励、神仏への信仰、
領民に対し誠実であることなどを事細かに21カ条にわたり記している。
これが北条氏の生活や考え方の基本となった。



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