スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

足利尊氏

室町幕府の初代将軍「足利尊氏」

室町幕府の初代将軍「足利尊氏」

愛刀 “骨喰藤四郎”( ほねばみとうしろう)
家紋 “二引両紋”( にひきりょうもん) 



足利尊氏

(1305〜1358)室町幕府の初代将軍。はじめ高氏(たかうじ)といい,鎌倉幕府の
有力御家人だったが,後醍醐天皇が倒幕の兵をあげると,中途で天皇方につき,
1333年に ※六波羅探題(ろくはらたんだい)をほろぼして幕府をたおした。
建武の新政では軍功第一とされ,天皇の名「尊治(たかはる)」の一字を
あたえられて尊氏(たかうじ)とあらためた。しかし,武家政治の再興をくわだてて,
1336年に後醍醐天皇を吉野(奈良県)に追い(南朝),べつに光明天皇を皇位につけ(北朝),
1338年,征夷大将軍に任じられて,京都に幕府を開いた。

尊氏が新しい天皇をたてたことにより,以後,約60年あまりつづく南北朝の対立が始まった。


   ※【六波羅探題】(ろくはらたんだい)

       承久(の乱(1221年)ののち,鎌倉幕府*が京都の六波羅においた役職。
       朝廷・公家の監視と,尾張国 (のちに三河国,ともに愛知県)以西の
       行政・裁判・軍事にあたった。執権に次ぐ重要な職とされ,
       北条氏の一族が任命された。1333年,後醍醐天皇に味方した
       足利尊氏に攻められてほろびた。

       六波羅探題と同じく,朝廷監視を任務の1つとする
       京都所司代(きょうとしょしだい)は,江戸時代におかれた
       幕府の地方統制機関である。




愛刀 “骨喰藤四郎”

  粟田口吉光 作
 重く鋭く、骨をも溶かすほどの切れ味と称された剛刀。


家紋 “二引両紋”

引両紋は足利将軍家の代表家紋。
また、室町時代の豪族名家の代表家紋ともなっている。

足利将軍家の代表紋でもある引両紋は、横、竪に線を引いたシンプルな紋。
大将の所在を示した陣幕には多色の布を横に縫い合わせたものが使用されて
いましたが、のちにそれを円形に切り取りだした物を引両と呼んだ。

陣幕は反物を横に五枚つないでつくられており、二引両は1、3、5段目布を白、
2、4段目を黒にした陣幕がもとになったといわれている。

「二引両」は足利将軍家の他に一門である今川氏・吉良氏・畠山氏などが使用。
功のあった武将たちにも二つ引両紋が下賜された。

引両の「両」は古来より「龍」で、中国の周易からでていると考えられている。
横に一線を描いて龍にみたてた。

スポンサーサイト

真田幸村

三成に過ぎたるものと呼ばれた男「諫言の臣 島左近」

島左近は、石田三成に仕えた戦国武将。

石田三成が、甲賀の水口城・四万石の城主になったとき、島左近に二万石を与えて家臣にした。

近江では「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われたという。



石田三成が佐和山城・十八万石の城主になったとき、島左近に加増しようとすると、「録はもう十分である。他の人に差し上げられよ。」と言って断った。



旧知の仲だった柳生宗矩に、「去年から家康を討つ機会が度々あったにも関わらず、それを逃した。すでに時を失いぬ。」と言ったという。
家康を討つなら早い段階で討つべきだったのに、三成にその勇気がなかった為に機を失い、すでに多くの武将が家康に傾いてしまった事を嘆いた。



豊臣恩顧の大名達が三成の批判をするようになると、島左近は三成に「理を非に曲げて、疎遠の武将たちにもへりくだり、遺恨のなきように親しむべきだ。」と諫言した。



島左近は、大阪城の天守閣で、秀吉の天下統一を喜び浮かれている三成の姿を見て、その帰り道で「ただ城下の繁栄に驕って、下々の憂苦を思わず、武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ甚だ危うい。」と諫言したが、三成はこの貴重な諫言を顧みる事がなく、結局は関ヶ原の合戦に破れ滅んでしまうのである。



島左近は、鬼左近と呼ばれて、関ヶ原の合戦では見事な戦いを見せたが、最後は敵陣深く攻め込んで、銃弾を受けて負傷。その後乱戦の中で討ち死にしたとされるが、結局遺骸は確認されなかった。



関ヶ原の合戦後、島左近の軍と激戦を演じた黒田長政は「横合いから味方が鉄砲を撃ち込んでくれなかったら、我らも左近の槍の餌食になっていた。」と語ったと言われる。

源義経

歴史に残る一の谷の戦い「弁慶を従えた牛若丸 源義経」


歴史に残る一の谷の戦い
「弁慶を従えた牛若丸 源義経」



愛刀 “薄緑”(うすみどり)
    “今剣”(いまのつるぎ)

愛馬 “太夫黒”(たゆうぐろ)

家紋 “竜胆紋”(りんどうもん)




源義経

九郎義経。1159年、源義朝の九男として母常磐御前との間に生まれる。
幼名は牛若。幼き頃に京都鞍馬山の鞍馬寺に預けられ、名を紗那王とされた。
やがて自分が源氏の一人であることを知り武術に熱を入れる。
このころ、夜な夜な寺を外出し五条大橋の上で武蔵坊弁慶と戦ったなどの伝説が残る。

後に鞍馬寺を脱出、奥州藤原秀衡の下へ向かう。奥州平泉で過ごした後、
義経は兄頼朝が挙兵したと聞き頼朝の下に駆けつけ、頼朝とともに平家と戦い勝利。
後の壇ノ浦の合戦では平家を滅亡させる原動力となる。

平家を一ノ谷合戦で破り検非違使の任官を受けるが、そのことで兄頼朝の怒りを買い
追討される。藤原秀衡を頼って奥州平泉に落ち延びるが藤原秀衡の死後、
嫡子泰衡により攻められて衣川館で自害。享年31歳だった。






愛刀 “薄緑”


 薄緑は,「平治物語」「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」に,
源義経の刀として登場する。義経が牛若丸と名乗っていた時代に
熊野別当から受け継いだ刀で,義経は幾多の戦で薄緑を振るったとされている。
 
ちなみに薄緑という名は義経が付けたそうで,「平家物語」「剣巻」
を見ると次のような一文がある。「熊野より春の山分けて出でたり。
夏山は緑も深く,春ほ薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば,
薄緑と名付けたり。この剣を得てより,日来は平家に随ひたりつる
山陰/山陽の輩,南海/西海の兵ども,源氏に付くこそ不思議なれ……」。
薄緑を授かった熊野の自然と,義経の感慨が読み取れるネーミングである。




愛刀 “今剣”


義経が自刃したときに使った短刀は,今剣(いまのつるぎ)と呼ばれる短刀だった。
製作者は小狐丸と同じ三条宗近。伝説の名工である。

 資料を調べると,今剣は最初から義経のものとして作られたわけではなく,
鞍馬山を祈願のために訪れた宗近が奉納していったものだそうだ。
奉納されたときは六尺五寸(約195センチ)もの刀で,今剣という名前は奉納時に
僧侶がつけたものらしい。経緯は不明だが,やがて今剣は義経のものとなり,
守り刀として義経の懐にあったという。あまりにも資料が少ないうえに,
今剣が現存していないのでなんともいえないが,奉納時は六尺五寸だった今剣は,
義経の最期では短刀になっているため,おそらく初期の太刀としての今剣は
なんらかの事情によって折れたか,当時の義経には大きすぎたため作り直されたと思われる。
しかし作り変えられたといっても宗近作の刀だっただけに,かなりの業物であったと推測できる。

 また注目したいのが,守り刀という点。今剣は戦場で振るうためではなく
義経を守護する,霊的(?)な刀として存在していたというのだから興味深い。
伝説の名工が鍛えて神仏に奉納したとすれば,確かに守り刀としてはうってつけである。
なにかしらの加護があってもよさそうだ。義経といえば壇ノ浦では船から船へと
飛び移って戦う八艘跳びや,一ノ谷では崖を駆け降りて敵陣を奇襲するなど,
当時の常識ではありえない戦略/戦術を駆使して戦ったことで有名だが,
源氏を勝利に導いた義経の功績の陰には,今剣の力が作用していたのかもしれない。

 最終的に義経は自害してしまったので,守り刀としての能力に疑問が残らなくもないが,
好意的に解釈するならば今剣が最期に守ったものは義経のプライドであったのかもしれない。


愛馬 “太夫黒”

日本史の中で最も有名な駿馬で、千厩産だったといわれる。
 治承四年(一一八〇年)、平氏追討を目指した兄・頼朝の挙兵を知った義経は、
平泉から鎌倉へと出発する。この際、藤原秀衡が、はなむけとして贈った
自身秘蔵の愛馬が太夫黒で、初めは「淡墨(うすずみ)」という名だった。

 この馬が歴史に残る働きを見せたのが「一の谷の戦い」。
世にいう鵯(ひよどり)越えの逆落としの場面である。人馬一体となった
奇襲戦術で名をはせた義経は、その後、検非違使(けびいし)少尉(判官(ほうがん))
に任官。同時に従五位下に叙せられ、黒毛の愛馬も位階の別称(太夫)から太夫黒と呼ばれた。





家紋“竜胆紋”

源氏一族の代表家紋とされ、源を名乗る武家が好んで使用した。
竜胆紋のプロトタイプは、三花五葉のもので、
葉が竹の笹に似ているところから笹竜胆とも呼ばれる。

リンドウ科の多年草で、秋深い高原に青紫の清楚な花を咲かせる。



柳生 十兵衞

江戸時代の剣豪「柳生新陰流 柳生 十兵衞」


江戸時代の剣豪
「柳生新陰流 柳生 十兵衞」



愛刀 “三池典太”(みいけてんた)

家紋 “地楡に雀紋”(われもこうにすずめもん)
    “二階笠紋”(にまいがさもん)



柳生 十兵衞

柳生 十兵衞(本名: 三厳( みつよし))は、江戸時代の武士、剣豪。
旗本である(ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数えられる場合もある)。
よく知られた「柳生 十兵衞(やぎゅう じゅうべえ)」の呼び名は通称。

徳川家光の小姓として仕え、後に剣術指南役をつとめたが、20歳で勘気を被り(諸説あり)、
小田原の阿部正次にお預けの身となる。その後12年ほど諸国を放浪し、武者修行や
山賊征伐をしていたと言われているが実際の行動は不詳である。
このことが講談の種となり、今日に至るまで彼を主人公とした様々な物語が
生まれることとなった。また新陰流には杖術が十兵衛杖として伝承されている。

父の死後、三厳と宗冬との間で遺領が分割されて石高が1万石を切ったために、
三厳が大名に列した事はないが、死後に弟の宗冬が三厳の遺領を相続したことにより
再度大名としての地位を回復させたために、便宜上三厳が大和柳生藩第2代藩主とされている。
慶安3年(1650年)に死去。享年44。死因は不明だが、鷹狩りに出掛けた先で卒中を起こした、
沼に嵌まって水死した、何者かに斬殺されているのが発見された等々諸説ある。三厳の死後、
2人の娘は、弟の宗冬によって養育された。


芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。中央が三厳の墓墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺
および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。

後世、片目に眼帯をした姿で描かれることが多い。若い頃に失明したと
伝えられているからである。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の
打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たったとか、宗矩が十兵衛の技量を
見極めるために礫を投げつけて目に当たったなど、諸説ある。
しかし、肖像画の両目はあいており、信頼に足る資料・記録の中に十兵衛が
隻眼であったという記述は1つも見られない。


愛刀 “三池典太”


三池典太
平安後期の筑後(福岡県)の刀工。薩摩(鹿児島県)の波平一派とならんで,
九州で最も古い刀工。三池郡に住したところから三池典太と称された。
最古の刀剣書『観智院本銘尽』には元久(1204~06)ごろの豊後行平の師としている。
現存する在銘作品は,室町将軍家代々の重宝で,その後前田家に伝来した名物
「大転多」(国宝)がただ1点あるに過ぎない。その作風はこの時代のものとしては
身幅が広く,大板目肌の流れた鍛えに,細直刃がほつれた刃文を焼き,
九州物共通の特色を示している。また,無銘であるが久能山東照宮蔵の
徳川家康の遺品も光世の作と伝える。





家紋 “地楡に雀紋”
柳生 十兵衞 家紋

       “二階笠紋”
柳生 十兵衞 家紋 二枚笠

柳生家は「地楡(吾亦紅=われもこう)に雀」と「二階笠」を家紋に用いている。
いずれも珍しい家紋で、「地楡に雀」は数ある日本の家紋のなかでも
柳生家ただ一氏のみが使用している家紋である。ちなみに地楡はバラ科の植物で、
「ちゆ」とも呼ばれ、吾亦紅、吾木香とも書かれる。秋に暗紅色の可憐な花をつけ、
「われもこうありたい」というはかない思いをこめて名づけられたという。
根は生薬でタンニンを含み、止血剤として用いられ漢方薬の原料ともなっている。

 何故、柳生家が地楡に雀を用い出したのかは不明であるが、
地楡のもつ止血剤としての効果が有り難がられた結果かも知れない。
一方、二階笠の方は津和野の大名坂崎出羽守直盛から譲られたものだという。

 坂崎出羽守は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、炎に包まれ落城寸前の
大坂城から徳川家康の孫娘千姫を救出した人物として知られる。俗説では、
家康は千姫を救出したものには千姫を与えると約束していたが、
直盛に対してそれを履行しなかった。

 この家康の虚言に怒った直盛は千姫の輿入れ行列を襲おうとしたというのが、
「千姫事件」というがもとより信じられない。一説にいうところの、
直盛が千姫と京都の公家との縁談をまとめたのに対して、
幕府は本多忠刻との話を進めたので、怒った直盛が千姫の行列を襲おうとした
とする方が話としては頷ける。いずれにしても、坂崎直盛は幕府に対して
武士の一分を通そうとしたものであろうが、幕府に対する謀叛とされたのも仕方がなかった。

 この千姫事件に際して、幕府は直盛のもとに柳生宗矩を遣わして、
その説得にあたらせた。宗矩の武士らしい説得に感じた直盛は、
その説得を受け入れると自刃して果てた(異説もあるが)。
このとき、直盛は宗矩の労に謝して「二枚笠」の紋を贈ったのだという。
以後、柳生家は二枚笠を紋として用いるようになったと伝えている。



加藤清正

加藤清正


  「加藤清正」



愛刀 “同田貫正國”(どうたぬきまさくに)

愛馬 “帝釈栗毛”(たいしゃく くりげ)

家紋 “蛇の目紋”(じゃのめもん)
    “桔梗紋”(ききょうもん)

加藤清正


永禄5年(1562)、尾張中村生まれ。加藤清忠の子。幼名、虎之助。
母が秀吉の生母の従姉妹(伯母とも)にあたるため、三歳で父を失ったあと

秀吉に預けられ、秀吉とその正室ねねに養育を受けた、と言われる。

初陣は二十歳。その後、秀吉に従って出陣を繰り返し、都度、戦功を立て、
賤ヶ岳の合戦では、七本槍の筆頭に上げられる。

天正13年(1585)、秀吉の関白就任に伴い、従五位下、主計頭。
15年(1587)、九州征伐。翌年(1588)、佐々成政改易後、
隈本(熊本)城入城。肥後半国、25万石。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵にともない渡海。京城を落し、
会寧で朝鮮国の王子二人を捕らえ、”鬼将軍”と異名を取り、恐れられる。
慶長の役でも蔚山の戦いで武勇を高める一方、陣中において石田三成と不和。
国内に召還される。これ以来、三成派と対立。福島正則らとともに反三成派の筆頭となる。

秀吉の死後は、三成らとの溝を埋めようもなく、前田利家の死の直後、
七将とはかり、三成を襲撃するが未遂。五奉行から失脚させられる。

関が原においては家康を支持して東軍に属し、九州にあって西軍の将、
小西行長の各城を落す。戦功により、肥後51万5千石。従五位上、肥後守に就任。

しかし清正は、家康を支持する一方で終生豊臣家への忠誠を忘れなかった。
家康が江戸幕府をひらくと、これに臣従しつつ、豊臣と徳川の関係調整に奔走し、
家康と秀頼の会見を実現させるなど、秀頼との関係を断たずに尽くした。

清正は城造りの名人として知られ、慶長初年ごろから熊本城を築城したが、
これは天下の名城として名高く、朝鮮出兵のおり、半島風の技術を学び
持ち帰ったという説もあって、石垣の構築に清正独特の工夫がこめられている。
名古屋城天守台も清正の構築である。

慶長16年(1611)、6月24日急死。50歳。毒殺の噂もあるほど、豊臣家に衝撃が走った。



愛刀 “同田貫正國”

加藤清正から一字を授かったという切銘の正国(九州肥後同田貫藤原正国、また
は上野介)が一番しられ、もともと同田貫は清正の抱えであったとも伝えられる。



愛馬 “帝釈栗毛”

名前の由来は、仏教の「帝釈天」と、栗毛だったことで
帝釈栗毛と付けた。
この馬は、6尺3寸(約1.9メートル)の、大きい馬である。
当時から、有名だったそうで
「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通りゃれ 帝釈栗毛」と歌われた名馬。


家紋 “蛇の目紋”

       “桔梗紋”

加藤家の紋は清正の甲冑(かっちゅう)に用いられている「蛇の目(じゃのめ)」
が有名だが、「桔梗(ききょう)」紋も用いていたことはあまり知られていない。
天正16年(1588年)清正は肥後北半国19万5000石の領主に任じられた。
それまでは5500石余りの侍大将だったので大抜擢である。

清正が肥後に赴くにあたり、秀吉は前年に改易(かいえき)した讃岐(さぬき)
の尾藤知定(びとうともさだ)の武具・調度一切を清正に与えた。
侍大将から領主への大出世ですが、それに相応しい兵力も道具も当然不足する。
秀吉が親心から配慮したものでだろう。

その尾藤家の紋が「桔梗」。清正は桔梗紋の入った武具・調度をそのまま使い、
自分の家紋にした。また、清正は旧尾藤家の家臣300名余りを、自分の家臣として
召し抱えていたので、彼等も誇りを傷つけられることなく存分に働いたと言われている。
また、清正はあとひとつ「折墨(おれずみ)」と呼ばれる家紋も使っていた。         
戦には「蛇の目」、慶事には「桔梗」、文化的な事には「折墨」というふうに、
用途により3種類を使い分けていたそう。

熊本城の頬当御門(ほほあてごもん)の横にそびえる宇土櫓(うとやぐら)の軒に
使われている丸瓦の紋は、細川時代の九曜紋(くようもん)、加藤時代の桔梗紋、
火難除けの巴紋(ともえもん)の3種類の瓦が混在している。


加藤清正にまつわる言葉


“熊本城”

1588年(天正16年)6月、加藤清正(1562~1611)は隈本城に入城、
小西行長は宇土城に入城した。

早速、清正は隈本城(古城)の修造を試みたが関ヶ原の役が終了するまで
外征が続いて肥後に留まることが少なく、城の改築も手つかずであった。


肥後を分割統治した加藤清正と小西行長は性格も大きく異なり、奉ずる宗教も
清正の法華経に対し、行長は熱心なキリスト教信者であった。文禄・慶長の
朝鮮出兵において両者の亀裂は拡大し、1600年(慶長5年)、関ヶ原の役で
清正は石田三成と対立、石田方についた小西行長を滅ぼした。
同じく石田方の島津氏を降伏させた功により、徳川家康から小西領を与えられたが、
キリシタンの多い小西領・天草の統治を嫌った清正は、天草領と豊後3郡の一部を
交換してもらい肥後54万石の藩主となった。豊後3郡の領地を得たことで清正は
中央への通路を確保することになった。

大藩の藩主となった加藤清正は家康から築城の許しを得、1601年(慶長6年)から
7年の歳月をかけて茶臼山丘陵に平山城を築城した。標高50mの茶臼山丘陵は
東側を坪井川、西側を井芹川に挟まれ、谷と湿地帯が作り出すこの東高西低の地形は
東、北、南が断崖となった天然の要害で、築城に相応しい場所であった。


城が完成した1607年(慶長12年)、清正は「隈本」の呼称を「熊本」と改めた。

「隈本」の「畏」が「恐れる・怯える」に通じるのを嫌ったと言われる。

築城を記念して本丸前に2本の銀杏の木が植えられたことに因み「銀杏城」とも呼ばれる。
そしてかつての隈本城、即ち千葉城・古城は熊本城の縄張りに含まれた。

大坂城・名護屋城の築城、朝鮮出兵における数々の築城に携わった清正は、
築城技術だけでなく治水・灌漑事業にも抜群の腕をもっていた。

井芹川の流れを変えて水量を増やし下流水田地帯の灌漑用水とした治水事業は、
現在でも高い評価を得ている。

清正の治水事業は有明海沿岸の干拓の他、白川・菊池川・球磨川・緑川の各河川に及び、
河川改修によって開墾した新田は肥後領内だけで2万5千町歩もあったと言う。







上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。